[食養の祖」 石塚左玄 「体育・智育・才育・は即ち食育なり」
1907年(明治49)食養会が誕生 医者で薬剤師である左玄は、患者に対して
食物指導だけで治していると東京で話題の人
となり、
明治天皇から食べ物で病気を治している専門医が研究する研究所をと提案され
国立栄養研究所が設立された。
すでに栄養学を提唱する、佐伯狛を開祖とする
栄養研究所(ヨーロッパ志向)とは
相反する「
食養法」自然主義志向を基本とした。
石塚左玄は1851年、福井藩の漢方医、石塚泰輔の長男として出生
左玄は生まれながらにして恐るべき皮膚病を持っていて、5歳の時急性腎臓炎にかかり
自らの難病と闘いながらも50数年間病を通して食物の研究を重ね、正しい食生活を
発見し、これを科学的に証明していったのです。
代々漢方医を実業としていた為、幼いころから漢方医学を学び、12歳にして
すでに医師としての腕前を認められていた。しかしそれに満足することなく、理化学
動植物学、解剖学を学び、さらに独学オランダの原薯を読み天文学を取得。22歳で医師と薬剤師の免許を同時に取得した。
「食物は加工すべきではない、食物は自然が良い。民族の伝統食習慣を軽々しく変える
べきではない。」と主張し、薬物らしきものを用いず、意外の治療効果をあげるという
世界にも類のない新治療方法を始めた。
一日百人限りと限定していたようだ。
左玄は世間からは、「反対医者様」の代名詞を与えられ、赤飯療法、ゴボウ療法、大根汁
療法、玄米療法などで全快させるのがお定めであった。
人間本来の自然治癒力を高める点に力点を置いていた。
左玄の代表作「化学的食養長寿論」(1896年刊)の序文に、
『薬物は形なき凶器であって、蘇東波の「薬よく病を医すも、人を養うことはできぬ。
食よく人を養うも病を医することはできぬ」を改め「
食よく人を養うも、病もまたよく 医すばかりでなく、化学的に配合を考慮して物を食べれば、食よく人を長大にし、人を
壮健にし、長寿にする』 と記し 『万代変わらなかった歯の形を考え穀物を食べなければ
ならない人間が楽に依存しては間違っている』
『人は日頃、食べ物を食べる習慣にならされているので食物の恐ろしさに気づかない』と
言った。
左玄の食養の思想を継承すべく、
二木謙三士により日本綜合医学会を設立医師で細菌学者だった二木謙三先生は、生まれて1年もたないと言われる程心身共に
酷い状態だったが、徴兵検査で引っかかり、身体を養成する為に黒い麦飯を食べ始めた。
すると、皮を剝ぐように良くなり健康体となった。
自らの病気を食で治した基本は、「
生命なき食物は生命の糧とならず」を信念に
赤ひげ先生と慕われ
未病医学を志す人々を集め、
日本綜合医学会を発足させ半世紀以上に渡って
「医は医なきを期す」という未病医学即ち食養道の確立に努力された、沼田 勇博士